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門真のヒストリー

門真の蓮根ヒストリー

門真の名産である「蓮根」に秘められた歴史とは

―なぜ門真は蓮根が名産なのか―
その歴史について紐解いてみましょう。

この蓮根ヒストリーには、門真蓮根のルーツ、昨今の蓮根事情などについてなど、蓮根ヒストリー作者である酒井則行さんが調べ上げてきた事実が時代に沿って書かれています。
今回はその一部を抜粋して紹介します。詳しく知りたいという方は、冊子をお読みください。

門真の地形・地名・人口

低い土地だった門真

弥生時代ごろの地形図を見るとわかるように、河内の中でも土地の低いところでした。
南の北島・三ツ島辺りは、特に低く水はけの悪い
土地でした。
しかしこの辺りは、稲が育ち難い代わりに蓮や葭(よし)は自然に生えておりました。

地蓮の消息

「地蓮」(じばす)・・・もともとあまり太くなく、日本蓮や和蓮などと言われている河内での呼び名です。

白亜紀の蓮の化石

日本での蓮根は在来種と言われ、中国が原産であるというのが通説となっています。
ところが佐賀県の白亜紀(約1億3500万年前~6600万年前)地層から蓮の葉の化石が発掘されています。このことから地蓮は中国原産でなく、白亜紀の蓮の子孫の可能性があると考えました。
白亜紀は恐竜が闊歩していた時代。その頃日本はアジア大陸の一部となっていました。300万年前に完全に大陸から離れましたが、アジア大陸にあった蓮が絶滅することなく日本に生きていたと考えられるのです。

弥生時代~室町時代の消息

■弥生時代
白亜紀後の蓮の消息は弥生時代初めごろまで下ります。
千葉県の大賀蓮や埼玉県の行田蓮などで、約2000年前の地層から種が発見され、現在これを発芽させ全国各地へと広まっていますが、このことは白亜紀の蓮が弥生時代に生きていた証拠と言えます。


■奈良時代
古事記から「引田部赤猪子の歌」、当麻寺の「中将姫伝説」の2つの話に河内の蓮根の話が出てきます。
2つの話は定かではないものの、たくさんの蓮が河内にあったからこその話だと分かります。

■平安時代
平安時代以降、蓮根は滋養があり咳止めに効くなどといわれ、民間療法でも使われていくようになりました。古くから太くなくとも貴重な食べ物とされていたことがわかります。

■鎌倉・室町時代
1546年創建という堂山町にある黄梅寺の二世が中国より蓮の種を持ち帰り、広めたことが河内蓮根の元だという伝えを門真町史は載せています。
ひょっとすると、この持ち帰った蓮と昔からある蓮との自然交配を経て、門真の地蓮になったのかもしれません。

江戸時代~明治・大正の消息

江戸時代の消息

1644年、門真の村々に葭とともに蓮にも年貢がかけられていた記録があります。
この時代、年貢がかけられるということは、蓮が商品として出回っていたからだと考えられます。
1716年には、天満青物市場に出荷という記録があるとのこと、市場に出すということは、かなりまとまった量の蓮が出荷されていたと考えられます。

稼ぐ河内の農民

江戸時代の河内の農民は、蓮根を商品とするために大奮闘していたことが伺えます。
大坂の商家では、「商売に穴が開く」として蓮根が敬遠されていたという話もある一方、現在お正月のおせち料理には、「穴が開いていて見通しが良くなる」と蓮根は縁起物として欠かせないものです。百歩譲っても、大坂のすべての町屋が嫌がったとは考えられず、天満の市に持っていけばそこそこ売れていたと考えられます。

南都(奈良)でも売れていた

南都(現・奈良市)の鳴川町、平岡家の過去帳に「蓮根屋彦四郎」の表記があります。「蓮根屋」という屋号からこのころ奈良で蓮根を扱っている商店があったことがわかります。
ここで扱っていた多くは河内蓮根だったと考えられ、このことは大坂で天満の市を通さず売ってはいけないというお触れが出る50年余り前、河内の農民はすでに販路を南都へ広げていたことわかります。

春日大社に灯籠寄進

寄進された灯篭前の春日大社表参道<br>(写真:酒井則行さん)
寄進された灯篭前の春日大社表参道
(写真:酒井則行さん)
1865年、蓮を扱っていた青物問屋弥兵衛の世話で河内の農民が灯籠を寄進しました。寄進された灯籠は春日大社の表参道の目立つところに建てられました。寄進はどういうきっかけだったかわかりません。
「立派な蓮根が採れるようにという願いと提灯を授かるため」なのか。「奈良で商いをさせていただいたお礼」なのか。

立派な2基の灯籠の基壇の石には、寄進した人の名前や村名が彫られています。

明治・大正時代の消息

江戸から明治にかわり、税が物納でなく金納になったことにより、蓮根の販路を拡大し現金を手に入れることの重要性が増しました。
このころの明治初期には、奈良の郡山へ中垣内越えで蓮根を担いで売りに行っており、大坂よりも高く売れていたそうです。
また、明治の中頃には地蓮を大々的に扱う為に河内蓮根組合を発足。
奈良方面に頻繁に出かけながら、天満や木津の市場にも進出。販路を拡大していきました。

ライバル現る~地蓮ではない蓮根の登場

備中蓮(左)と加賀蓮(右)<br>(写真提供:門真市)
備中蓮(左)と加賀蓮(右)
(写真提供:門真市)
1921年ごろ、大阪の市場で蓮根の取引を盛んであると知った岡山や石川の農家が蓮根を出荷し始めます。
岡山や石川の蓮根は明治初期に中国から輸入された唐蓮(からはす)で茎が太く短く軟らかくて歯当たりの良いものでした。一方河内の蓮根は細く、「こんな細い地蓮なんかでは商売になりません」と市場では相手にされなくなっていきました。

そこで、北島の山田庄太郎、土居捨松、浅田治三郎らが金沢へ出向き、加賀蓮の種を購入。さらに伊藤安松らは天満で備中蓮の種を得るなどし、浅い田んぼで栽培したところ、どちらも品質も収量も良く、たちまち広まり、毎年加賀・備中蓮の生産量を増やしていきました。

昭和・平成の消息

昭和の消息~どや!大阪一や!

1930年12月、二島村三ツ島神社にて、河内蓮根出荷組合を置き、共同出荷体制を確立。
2年後出荷組合は、運搬用自動車を導入し、京都神戸などへの運搬を開始。年間1396回に及ぶ運搬回数で、出荷量も55万貫となり、1935年12月の朝日新聞に「蓮根掘りに早正月景気。出荷組合から京阪国道に通ずる府道は蓮根リアカーの洪水」と報道されたほどでした。
しかし
戦中から米の統制があり戦後も続いていました
1951年、ようやく米の統制がなくなり自由に農作物が作れるようになったことで、河内の土地は蓮根作りが一番向いており、出荷が
長い間可能なため、高値で売れたことで再び蓮根作りに精を出し始め、1955年には大阪府下で300町を超える過去最高の蓮根が生産されました。

それもつかの間

かつてこの道路脇も一帯が蓮根畑だった<br>(写真:酒井則行さん)
かつてこの道路脇も一帯が蓮根畑だった
(写真:酒井則行さん)
1960年以降、高度経済成長により工業製品の生産が活発化し、門真へも地方から多くの人が集まりだし、門真の田畑も例外なく工場や住宅用地へと変貌していきました。
蓮根の生産技術の向上や優良種苗の導入と普及などを研究する組合連合会が発足。
しかし蓮根作りが盛んであった千石沼周辺の広い土地は門真団地が建てられるなど、昭和44年までの10年間で100町あった農地も45町まで減少。
蓮根の腐敗病も広がるなど、深刻な問題となっていました。
改修前の門真団地付近に広がる現在の蓮畑<br>(写真:酒井則行さん)
改修前の門真団地付近に広がる現在の蓮畑
(写真:酒井則行さん)
第二京阪道路付近に広がる現在の蓮畑<br>(写真:酒井則行さん)
第二京阪道路付近に広がる現在の蓮畑
(写真:酒井則行さん)

それでも作り続け、現在の蓮根事情

1985年には作付面積15町、1995年には8町、2003年には5町となってしまいました。
2010年には第二京阪道路が完成しさらに作付面積が減少。販売目的の蓮根作り農家は18軒ほどとなりました。

現在の門真ではかつて蓮根で賑わったそのイメージを積み重ね続けて希少な蓮根で門真に活気を呼び起こそうと様々な取り組みが行われています。

少ないからこそ値打ち

かつての蓮根の大生産地、そして今も少ないながらも作られている蓮根を味わいたいという声や、昔ながらの蓮根のある風景を残してほしいという声に個々の農家も応えようとしています。

農業祭での蓮根販売や蓮根堀の見学、学校給食での食材として蓮根・くわいや地元野菜を出荷して子どもたちにも親しまれるような取り組み、市民向けの蓮根料理を作りながら環境を考える講座なども行われています。
一方農家では、これまで「河内蓮根」といってきたもののほとんどが門真での生産になってきていた今日、「門真蓮根」としてブランド化をはかり、量より質で販路を広げていこうとしています。
現在は個々の農家が百貨店・スーパー・料亭・個人などに販売しています。

蓮根にちなんだ商い

蓮根を使った料理<br>(写真提供:食楽酒楽しん)
蓮根を使った料理
(写真提供:食楽酒楽しん)
門真といえば、「蓮根と松下(パナソニック)の町」といわれていました。
「はすね最中」などを蓮根にこだわった銘菓を製造販売するお店、蓮根を使ったお餅である「蓮根餅(はすねもち)」などの料理や新作料理を提供する蓮根専門料理店、福島県郡山市にある酒造会社に蓮根を使った焼酎がつくられたりする酒販店、地元の蓮根をメニューに付け加える飲食店など、多くあります。

蓮根をキーワードにもっと門真を

2015年の春日大社奉納行列の様子<br>(写真:酒井則行さん)
2015年の春日大社奉納行列の様子
(写真:酒井則行さん)
1999年に「門真れんこん隊‘99」と銘打ち郷土愛を育むため蓮根掘り体験と交流が行われ、同年には「河内蓮根を通して自分たちの住む町の伝統文化を考えながら地域交流を行う」ことを目的に『門真れんこん発掘隊』が発足。その活動の一環で、2004年に春日大社に寄進された灯籠について調べるため春日大社を訪問。
そして2006年から春日大社若宮おん祭前に
神饌として使う蓮根を奉納する「河内蓮根奉納行列」がはじまりました。
また、直接レンコンを使いまちの活性化を行う取り組みも行われています。2009年には「新しい夢のある地場産品の創造」を掲げ「あかりの会」が発足。
以降毎年7月には蓮の葉に酒などを注いで飲む「象鼻杯」が開催されています。
2010年に発足した「飲食店元気塾」は、蓮根焼酎と蓮根料理が味わえるお店の連携を図りながら、「かどま元気バル」などを通じて街を盛り上げようと取り組んでいます。また蓮根と麦を使った新焼酎をつくるなど、『門真の自慢づくり』を図っています。

「門真の蓮根ヒストリー」 作者 酒井則行さんより

「門真の蓮根ヒストリー」の作者・酒井則行さんは、冊子のあとがきで次のように語っております。
私は小学生時代、小路町に住んでいました。家の裏は蓮田で、蓮根は親しみのあるものでした。親しみのある蓮根についての民話があると知ったのは5年程前。その「門真れんこんと御用提灯」という民話は、門真の農民たちの苦労を知らせる工夫された話で、この中には実在する灯籠が登場します。灯籠によってこの話は現実味を帯びています。そこで、この民話に語られている内容を事実と突き合わせてみることで、民話の背景がわかるのではないかと考え、たくさんの文献にあたってきました。さらに、この民話の以前、そして民話以後の現在につながる部分を付け加えることで門真の蓮根の歴史をおおよそ知ることのできるものにしようと考えて作ったのが、この「門真の蓮根ヒストリー」です。
事実を調べていくにあたり、各地に足を運んだり、問い合わせたりしました。その際、たくさんの方との出会いがありました。皆さんの協力をいただかなければとてもこの冊子は出来上がりませんでした。
ご協力いただいた方々に心よりお礼申し上げます。


2015年4月18日
縄文e.m.工房 酒井 則行
門真れんこんヒストリー

頒布価格 100円

制作 縄文e.m.工房 酒井 則行

〒571-0057 大阪府門真市元町18-1
メール jyomon2@zeus.eonet.ne.jp